しがない作家志願者のあがきとモガキ

タイトルの通り、日々のあがきとモガキです。後は、作品をたまに上げてみたり、紹介してみたり。かな

自分を知り、手持ちの武器を把握する

創作をしていると、色々な欲が湧き出てくる。

初めは純粋に書きたいものを書いて、頭の中で何となくふわっと浮かび上がった世界の切れ端が生命が芽吹いていくかの如くパーッと色を付け広がっていく感覚に素晴らしさと快感を得て、想像の世界をリアルな一つの人生にする事をのみに夢中になってそれだけで満足していた。

世界を発表し、読んでもらったことに、感想をもらったことに喜びを覚え、より励み公募へ挑戦する。

あるあるだし、モノづくりをする以上そういった向上心は持つべきだと思う。

でも、その過程でぶち当たってしまう壁がある。

ウケや需要だ。

自分に芽吹いた世界の表現だけでなく、そう言ったものによく悩まされてしまう。

レベルアップすれば、当然自分を取り巻く世界も広がっていくから当然なことで。

作品をより優れたものに仕上げたいと思うからこそ、視野を広げ見渡し、このトラップに陥ってしまう。

世間に認められ、世に出るということはウケたということなんだから。

でも、世間の好みに合ったものばかりが出回っても、それはありふれたものであり、価値が下がる。いずれ飽きられ別のブームとなるウケがやってくる。

結局「面白い」とされる作品、人の心を打つ作品は……いやいや作品と呼べるものは下の記事に書かれてるように、その作者にしか書けない唯一の世界なのだ。


monokaki.everystar.jp

上のサイトより引用 

 「おもしろい」小説を書くためには、何を武器にしますか? 「これだけは誰にも負けない!」というアピールポイントがありますか? 

 

ということで、自分の持ってる武器を見直してみようと思う。

読者様から頂いた感想によく見られたのが、

 

『映画を観ているような、その場に居合わせてるように物語の中に入り込んでしまいます』

 

非常にありがたいお言葉。素直に嬉しです。

振り返ってみれば「なるほど」と納得できる。

前回の記事でも書いたように、わたしは読書ではなく映画で育った人間で。

作品の見せ方という点で小説は文字でできているけど、ビジュアル的要素が大いに占めてると思う。

次いで言えば、キャラの心情は単純な一言では言い表されないものだとも思っていて、色々な要素を含む、複雑な想いをキャラの感じている空気や、目に見えているモノ、主人公の状態で表現しているからだと思う。

自分でもこれは常に持っていたい武器の一つだ。

それに、前の記事で書いたアレルギー反応(寝てしまう)を引き起こす小説もビジュアルより状況をダラダラ綴ったものだったと思う。 

 

相方さんから頂いた言葉がこれ。

 

『青春の瑞々しくて痛々しくてキラキラ輝いた感性』

『繊細で一途な主人公。静かな世界は心の琴線に触れ、苦しいような切なさを連れてくる』

 

自分自身が大人になり切れてないというところもあるだろうけど、逆にそこが武器になってると思う。

相方さんは真逆で凄く大人な物語を書く人。だったりするから、自賛ではあるけど我々のコラボはとても塩梅がいいはず。

脱線してしまったけど、わたしが書くキャラ(登場人物)は人間臭い。

完璧な人なんてこの世にいないし、完璧な人より人間臭い人の方が生き生きしているし、カッコ悪く泥臭い方が面白いと思う。だからそんなキャラが物語の中で悪戦苦闘し、何かに気付いたり得たりするから物語になるし、それこそがむしろカッコイイとすら思う。

なのでキャラをドンッと苦境に陥れ、自分を曝け出させ存分にもがいてもらう。

 

『純粋に登場人物に同化し、そこから紡ぎ出される文章には綺麗ごとだけでないリアリティを感じる』

 

つまり、自分の武器はコレ。リアリティなのだ。

まさに、自分の意志と合致している。

素人臭いだろうけど、わたしは一人称で書くのが好きだ。なんせ、リアルだから。

キャラ目線で感じたもの、その世界で流れる時間を読者として共有できる。

共有は共感を呼び、それが読者の中でリアルになる。

 

このリアリティをもっともっと意識して高めていき、自分でしか書けない小説を書いて行きたいと思う。

文章書きたい症候群中のとある作家志願者

たまに無性に文章を書きたい衝動に駆られることがちょこちょことある。
そういう時は大概仕事に向かう道すがらだったりする。
書けない状況下にある時に、この発作が発動してしまうからなかなか厄介。

どうやら自分はなかなかの天邪鬼であり、そこそこめんどくさい人間のようだ。
物事を考える作業は結構好きなんだけど、その作業は得意なわけじゃなく、しかもかなり素人だ。文章を書くならちゃんと起承転結。面白おかしくエンタメに。したいところだけど、自分は定型を持たない散文派。韻を踏んだ言葉遊びは好きではあるけれど、オチにこだわるのとかはあまり好きじゃない。そういった知識も薄弱なのだ。

子供の頃の自分は親の目を盗んでは家を飛び出していた。別に悪ガキだったわけでもなく、ただ単に元気がよかっただけ。読書するより公園を駆け回っていた子供時代のつけが回ってきたのかなと思う。
当時は字を読み始めると五分で寝息を立てていたほど。つまり、読書に全く縁のない生活をしていた。わたしには姉が一人いる。この姉というのが自分とは真逆で自称活字中毒者。本が大好きで子供のころから難しそうな小説をたくさん読んでいた。時が経つにつれ、難しそうな小説の他にも、姉は漫画やエッセなんかも読み始め、新聞はともかく広告の文字でもいいとまで言いだす始末。読んでいると中身はなんであれ落ち着くらしい。今は図書司書を仕事にしている。まさに天職なんだろうな。
そんな真逆の姉の影響もあり、映画には興味があった。
姉とは五歳も離れているから、子供時代一緒に遊ぶとなると映画を観るくらいしかなかったからかも。夏休みなんかはビデオレンタルにチャリンコで行って店内の涼しさに「ハァ~」となりながら、借りるビデオを二三本まとめ借りし、また炎天下チャリンコ移動で家に帰り家のエアコンに「ハァ~」となった。そのヒンヤリした空気の清々しさは未だ鮮明に思い出せる。

ともあれ、映画好きは物語好きに通じていたらしい。大人になったわたしは小説の投稿サイトに物語を作り、投稿している。

きっかけは、外遊びばかりし過ぎて趣味と呼べるものを全く持ち合わせず大人になってしまい、無趣味故にネットサーフィンに明け暮れて、辿り着いたのが某ウェブ小説投稿サイトだった。

活字中毒者の姉を持つ、活字に眠気を催す活字アレルギーの自分も大人になり少々の耐性はついていたらしい。

もちろん初めは読専。そのサイトでもフラリフラリと読み渡り、一人の作家さんに辿り着いた。それが、今の執筆パートナー。まさに運命の出会い。

パートナーとのドラマチックな出会いはここでは控えておこうと思う。

脱線するとキリがないから。

ともかく、小説をろくに読みもしなかった子供が大人になり、小説を書いている。もう書き始めてかれこれ七年も経つ。立派な趣味を得たもんだ。

そして、趣味はいつしか本気モードになり、来年には書籍化というところまでたどり着いた。素人なりにここまで来るとは。”継続は力なり” とはよく言ったもんだ。

半端じゃない年月を経てるとはいえ、夢中になれる趣味を持ち、パートナーと日々特訓といえるあらゆる執筆チャレンジに明け暮れ、執筆の勉強を独学とパートナーの補助から学び、作家として順調な歩みだった。

そして、ここまで来たからには漠然とした夢ではなく具体的な夢とし、これからも本気で作家を目指しあがいていこうと思う。

書籍化とはいえ、この文章を読めばお分かりのように、まだまだド素人。全然手探りで悩みまくりの日々。

悩みなんてものは結局自分で解決するしかないと、ずっと脳内消化していたのだけど。文章書きたい症候群が発病してしまった今、ブログを始めてみようかなと思った次第。

なので、ブログのタイトルを『さっかつ』にした。

……と思ったのだけど、風呂に入ってブログ記事を考えていると浮かんできた言葉。『しがない作家志願者のあがきとモガキ』

こっちに変更だな!

だって、こっちの方が内容に合っているもの。

ということで、この七年夢中で駆け抜けてきた作家活動を軸に、現在の心境や考え事なんかを綴っていこうと思う。

しがない作家志願者のあがきとモガキ